次の日本のお札の図柄が変わることが発表され、お札になる人物達のことが話題になっていますが、今回は、お札の中でも1万円札のモデルになる渋沢栄一(しぶさわ えいいち)についてお伝えいたします。
渋沢栄一がどんな時代に生き、何をした人なのか、そしてお札に選ばれた理由とはなんなのか紹介しながら、いつ新札が発行されるのかをお伝えしていきます。
渋沢栄一はいったい何した人なのか
まず、渋沢栄一がどんな時代の人かというと、江戸時代でも幕末の時代から明治にかけて活躍した人物で、特に現在も残る銀行を含む数多くの企業を設立した人物であり、また多くの教育機関を設立した人物として知られています。
明治維新と言えば、下のような写真の時代でした。
明治の初期に活躍したと聞くと、長州(現在の山口県)、薩摩(現在の鹿児島)あるいは、土佐(現在の高知県)の武家出身だろうと思う人は多いのではないかと思いますが、実は渋沢栄一は現在の埼玉県生まれで農家の出でした。
それでは、渋沢栄一の簡単なプロフィールをご紹介しましょう。
生年月日:1840年3月16日
住所:武蔵国榛沢郡血洗島村
(現在:埼玉県深谷市血洗島)
職業:幕臣→官僚→実業家 兼 教育者
時代をイメージしやすいように有名人物と年齢の比較をすると、渋沢栄一が1840年生まれに対して、坂本龍馬(さかもとりょうま)は、1836年生まれで4歳上、西郷隆盛(さいごうたかもり)は、1828年生まれで、12歳上、徳川幕府最後の将軍になった徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は1837年生まれで渋沢栄一よりも3歳上だったのです。
職業を見ると幕臣から官僚を経て実業家になっていますね。「どうしてそうなったのか?」疑問に思う方も多いでしょう。
それでは、実業家になるまでの渋沢栄一の履歴を見ていきましょう。
1850年代(14歳)家業である(畑や養蚕)や藍(あい)問屋の仕事に励む。同時に学問と武術を習う。
1864年(24歳) 幕府側の一橋慶喜(後の15代将軍になる徳川慶喜)に仕える。慶喜(よしのぶ)との信頼関係が深まる
1866年(26歳) 徳川慶喜が征夷大将軍になると渋沢栄一は将軍の家臣、幕臣となる。
1867年(27歳) パリ万博使節団に加わりフランスへ渡航。
1868年(28歳) 明治維新により渋沢栄一もフランスより帰国。渋沢栄一も徳川家について静岡へ移住。
渋沢栄一の実業家としての功績
それでは、渋沢栄一がどのようにビジネス界、あるいは教育界の大物になっていったのかをご紹介しましょう。
大政奉還が行われ、徳川家は国土の管理を朝廷に譲ると、江戸(東京)から静岡へ移ります。
徳川家に課せられたのは、地方の財政を豊かにし、町を反映させることになっていきました。
近代化したヨーロッパの社会や通貨制度や経済政策を自らの目で見てきた渋沢栄一は徳川慶喜から財政立て直しを任されると、領内の特産物生産を促進し、領外への販売にも力を入れていきました。渋沢が、20代後半のころのことです。
また、販路を拡大し、繁栄を獲得するために日本で初めてとなる銀行機能と商社機能を兼ね備えた「商法会所」(しょうほうかいしょ)を静岡に設立しました。
次のような気持ちで渋沢栄一は事業にあたっていたのかもしれませんね。
その事業が個人を利するだけでなく、多数社会を利してゆくのでなければ、決して正しい商売とはいえない。
ー 渋沢栄一 ー
この渋沢栄一の活躍に注目したのが明治新政府でした。
渋沢は、大蔵省に迎えられることになったのです。29歳のときでした。
渋沢栄一は入省すると財政制度や貨幣制度の導入に向けて尽力していき、近代化に向けて歩みだした日本にとっては欠かすことのできない人材になっていったのです。
しかし、軍備力を増強しようと意図する新政府の重鎮、大久保利通や大隈重信の考え方に反して軍備力の予算縮小を訴えた渋沢栄一は、1873年33歳のときに退官することになったのです。
後に渋沢は次のようにも語っています。
どんなに勉強し、勤勉であっても、上手くいかないこともある。ー 渋沢栄一 ー
しかし、それからの活躍がスゴイのです。
大蔵省で、貨幣制度や銀行制度の仕組みの検討やそのための調査や立案を手掛けていた渋沢栄一はその後、日本で初めてとなる第一国立銀行(現在のみずほ銀行)を設立し、現在の日本の基幹産業となっている会社を次々と設立し、渋沢が設立に関わった会社は500社にも上りました。
下記が第一国立銀行の写真です。
渋沢栄一はまさに「日本の資本主義の父」となったのでした。
渋沢栄一が設立に関わった企業の主なものをご紹介しましょう。
- 銀行・保険業:第一国立銀行、三井銀行、東京海上保険、帝国火災保険
- 運輸業:東京湾汽船、日本郵船、日本鉄道、総武鉄道、東京地下鉄道
- 製造業:東洋紡績、王子製紙、日本板硝子、日本鋼管
- インフラ:東京電力
渋沢栄一は、帝国ホテルや帝国劇場、東京証券取引所の設立にも関わっていました。
渋沢栄一はなぜ、ひとりでこんな大事業を成し遂げられたのでしょうか?
渋沢栄一の心構えについての名言を引用しましょう。
できるだけ多くの人に、できるだけ多くの幸福を与えるように行動するのが、我々の義務である。 ー 渋沢栄一 -
渋沢栄一の教育者・社会実業家としての顔
渋沢栄一はビジネスだけでなく、教育にも熱心に力をいれた人でもありました。
人々が教育を受けることで次のような人になることを渋沢栄一は願っていたのです。渋沢は次のような言葉も残しています。
人は全て自主独立すべきものである。
自立の精神は人への思いやりと共に人生の根本を成すものである。ー 渋沢栄一 -
渋沢栄一は社会で役に立つ実学教育を目指して大学の設立に携わるようにもなっていきました。設立時のときの大学と名前が変わったところもありますが、渋沢が設立に関わったのは次の学校です。
- 一橋大学
- 東京経済大学
- 国士舘大学
- 同志社大学
ヨーロッパの思想や文化にも深い理解を示した渋沢栄一は、女性にも学問や教育が必要であると考え、女子教育奨励会も設立しました。
具体的な女性の教育場所として日本女子大学や東京女学館の設立に携わったのが渋沢栄一だったのです。彼は同時に設立や運営に関わる多額な寄付も行いました。
渋沢栄一がお札に選ばれた理由とは
渋沢栄一がお札に選ばれた理由のひとつには、渋沢栄一の考え方を手本にして、日本人全体が経済やこれからの社会の変化を考えなければならない時代に入ってきたということではないでしょうか?
福沢の残した言葉にこんなのがあります。
一個人がいかに富んでいても、社会全体が貧乏であったら、その人の幸福は保証されない。 ー 渋沢栄一 -
それに渋沢栄一がお札のモデルになっても、誰も反対しないでしょう。日本の通貨制度や企業設立のパイオニアであり、日本の近代社会の仕組みや社会制度の基を築き上げた人だからです。
過去に1万円札になったことのあるのは、聖徳太子(しょうとくたいし)と福沢諭吉(ふくざわゆきち)ですが、福沢諭吉がお札の表紙をかざったのであれば、当然、それと同等、あるいは、それ以上に日本の社会に貢献した人物として渋沢栄一の名前が以前からあがっていたとしても不思議な話ではありません。
渋沢栄一肖像画のお札にいつから変わるの?
それでは、いつから新紙幣に変わるのでしょうか?
渋沢栄一の新紙幣に変わるのは、2024年からだと発表されています。
前回、新しいデザインの紙幣が発行されたのは、2004年のことでした。
その前は、1984年でした。
過去の紙幣のデザイン変更は20年ごとに行われていてちょうど2024年が20年目にあたります。
新一万円札は下記の写真のようになる予定です。
なぜ、20年ごとにデザインを変えるのかという点ですが、いろいろなことが言われています。
ひとつには、20年以上、同じ通貨を流通させた場合に、偽造されやすくなるためだとも言われていますね。
偽造されることを防ぐためには、もっとひんぱんに変えた方がよいという意見もあるかもしれませんが、新しく紙幣を発行することは莫大な費用のかかることであり、お金の引出機を管理している銀行やコンビニもキャッシングマシーンを新紙幣対応のものに変更するのにやはり高額な費用が必要になってくるのです。
ですから、20年ごとのデザイン変更と言うのは、紙幣の安全性や国家予算あるいは、取り扱い企業の設備投資費用の点から適切なタイミングなのでしょう。
まとめ
- 20代の渋沢栄一は明治新政府後の徳川家に貢献
- 30代には大蔵省で銀行制度の仕組みの検討
- 30代半ばからは500を超える株式会社や大学を設立
- 渋沢栄一の1万円札が発行されるのは2024年予定
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